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「寺田屋お登勢実家 升屋跡」石碑除幕式のご案内
 2013年1月に大津市丸屋町商店街に寺田屋お登勢の実家である公事宿「升屋」のあったことが、歴史研究者あさくらゆう氏の調査により判明いたしました。これを受けて同地に石碑を建立することになりました。
 大津ではかねてより近江龍馬会が、大津における龍馬ゆかりの地に建碑を行う活動をすすめられていました。そこでこの度は、京都龍馬会と近江龍馬会が共同で建立することになりました。
 建碑に際しては当該地の土地所有者 有限会社光風堂菓舗様より設置場所のご提供を受け、また一般社団法人日本石材産業協会京都支部より石材ご提供、滋賀県支部からは設置工事のご協力を受けることになりました。解説板等付帯費用は建碑に賛同された方々よりの寄付により賄われます。
 今般、以下の通り除幕式並びに現地説明会を開催いたしますのでご案内申し上げます。

 除幕式
  日時:平成25年5月25日(土) 13:00
  建碑場所:大津市中央1-4-19 光風堂菓舗前
      (京阪浜大津駅徒歩5分 丸屋町商店街)

 現地説明会 14:00~
  場所:大津百町館 大津市中央1-8-13 
  解説:歴史研究者 あさくら ゆう氏
      NPO京都龍馬会理事長 赤尾 博章



| 石碑建立活動 | 11:56 PM | comments (x) | trackback (x) | お問合せ |
坂本龍馬 お龍「結婚式場」跡石碑 復帰
 建碑地のビル建て替え工事に伴い一時撤去されていました「坂本龍馬 お龍『結婚式場』跡石碑」が復帰しました。
 「東山ユースホステル」は廃業され、「パーク・ウォーク京都東山」という賃貸マンションに生まれ変わりました。

建物に向かって右端の角に設置されています。




| 石碑建立活動::坂本龍馬 お龍「結婚式場」跡 | 04:08 PM | comments (x) | trackback (x) | お問合せ |
石碑破損
 京都市中京区木屋町通六角下ル都会館 京都龍馬会事務局「龍馬」前に平成21年3月29日建碑された「坂本龍馬妻お龍独身時代寓居跡・京都府知事中井弘幕末期寓居跡」石碑が平成23年10月10日早朝、何者かによって壊されました。


 石碑は高さ約110センチ、幅18センチの角柱で根元から大きく傾き、最上部付近には欠損もあります。
 当日「龍馬」は午前2時過ぎごろまで営業しており、閉店後確認した時には異常はありませんでした。午前6時ごろまで営業していた「都会館」内の飲食店店主の証言によると、午前5時~6時ごろ、石碑付近に置いていた同店の看板を倒すような大きな物音がしたので出てみると若者数人が石碑付近にたむろしており注意したところそのうちの一人が店主に抱き着いてきたので、危険を感じ店内に戻った、その後どうなったかわからないとのこと。
 所轄の五条署に被害届を提出。木屋町通りには防犯カメラが設置されており、都会館付近も撮影されていますので犯人の画像も残っているものと思われます。
 奇遇にも10月10日は中井弘の祥月命日にあたります。多くの方々の募金によって建てられた石碑が心無いものによって壊されたことに憤りを感じます。 一日も早く犯人が検挙されることを期待します。


| 石碑建立活動::お龍 独身時代 寓居跡 | 11:38 AM | comments (x) | trackback (x) | お問合せ |
坂本龍馬 お龍「結婚式場」跡石碑 一時撤去
京都市東山区三条通白川橋東入五軒町 東山ユースホステル前にあります 坂本龍馬 お龍「結婚式場」跡石碑 は同地新築工事のため一時撤去されています。
平成24年4月ごろ再度、設置される予定です。


| 石碑建立活動::坂本龍馬 お龍「結婚式場」跡 | 11:00 AM | comments (x) | trackback (x) | お問合せ |
「坂本龍馬・中岡慎太郎など幕末志士葬送の道」除幕式
10月13日(水) 11:00

「坂本龍馬・中岡慎太郎など幕末志士葬送の道」除幕式がおこなわれました。



場所:東山霊明神社 参道
京都市東山区枡屋町356 霊明神社西墓地前

土地提供:霊明神社
石材提供:(社)日本石材産業協会、京都支部
解説:歴史地理史学者 中村武生

碑文
(表)坂本龍馬 中岡慎太郎 など幕末志士葬送の道
(右)此東南 吉村虎太郎ほか天誅組志士墓所跡
(左)正法寺 霊明神社 参道

 この道は、当地の東突当たりにある霊鷲山正法寺の参道です。「霊山正法寺道」などといいます。その境内に、文化6年(1809)、地下(六位以下の貴族)の村上都愷が霊明社(現霊明神社)を創建しました(霊明神社文書)。徳川政府の宗教政策により、原則すべての国民が仏教徒とされていた時代に、神道による葬式(神葬祭)を始めたのです。
幕末期、3代目神主村上丹波都平のとき、神葬祭を進める長州毛利家などと縁ができ、在京志士の葬送・祭祀の地とされてゆきました。
文久3年(1863)7月29日、長州系志士である土佐の吉村虎太郎が、前日に亡くなった友人宮地宜蔵の埋葬・祭祀を依頼したり(同日付村上都平宛吉村虎太郎書翰)、元治元年(1864)3月4日、長州の久坂義助(玄瑞)が、先祖の永代供養を任せたほか(同年3月25日付妻宛書翰)、同年6月7日、池田屋事件で亡くなった吉田稔麿らの遺体を長州屋敷が埋葬したことはほんの一例です(同年6月13日付里村文左衛門ほか宛塩屋兵助ほか書翰)。
慶応3年11月17日(1867年12月12日)夜、2日前に河原町蛸薬師の近江屋新助方で、京都見廻組の襲撃を受けた坂本龍馬・中岡慎太郎・龍馬の家来藤吉も霊明社に葬られました(同年12月4日付中岡源平宛清岡半四郎書翰)。彼らの遺体はこの道を通ったに相違ありません。
維新後は、明治新政府の方針で、霊明社・村上氏の所有地の大半が没収(上知)され、創建まもない東山招魂社に譲られてしまいました(霊明神社文書)。現在、龍馬らの墳墓がその後身である霊山護国神社の所有・管理とされているのは、以上の理由によります。
長州志士や龍馬らの遺体が、もともとこの道を通って霊明社に託されていたという歴史事実を忘れてはなりません。幕末史蹟としての霊明神社を認識され、龍馬らの墓参(霊山護国神社の参拝)とあわせて、霊明神社へもお参りくださることを願います。
なお背後の墓地には、もと「土佐高知藩神霊社」があり、東側の小高い部分(現在マンションの建っている地)には、大和国(現奈良県)で挙兵・戦死した、前述の吉村虎太郎ら天誅組志士の墓がありました。現在は霊山護国神社内に移されています。

2010年(平成22年庚寅)10月

歴史地理史学者
 中村武生



| 石碑建立活動::坂本龍馬・中岡慎太郎など幕末志士葬送の道 | 04:37 PM | comments (x) | trackback (x) | お問合せ |
「此付近 新選組最後の洛中屋敷跡」 建碑除幕式
除幕式日時:平成21年10月18日 15:00から
監修:中村 武生 先生
(NPO法人 京都歴史地理同考会 理事長、歴史地理史学者、京都女子大学など非常勤講師)
建碑場所:京都市下京区西洞院塩小路下ル南不動堂町802 ハトヤ瑞鳳閣

碑文
(表)此付近 新選組最後の洛中屋敷跡
(右)旧平安京左京八条二坊十五町
(左)旧山城国葛野郡不動堂村
(裏)二〇〇九年一〇月 ハトヤ瑞鳳閣建之

当地は古代の表記でいえば、平安京左京八条二坊十五町にあたります。
中世には八条院町とよばれ、鋳物生産が多数行われた、いわば工業地帯でした。
が、戦国時代には農村化し、江戸時代までに葛野郡不動堂村が成立しました。しかし豊臣期に構築された、京都全域を囲い込む惣構(城壁・環濠)「御土居堀」の郭内に位置していたため、「洛中」(都市)扱いを受けました。
幕末期、新選組がこの地域に屋敷を営みました。池田屋事件や禁門の変などでの活躍や、局長近藤勇の政治的力量が高く評価され、慶応3年(1867)6月、将軍徳川慶喜の直属の軍隊となりました。これにあわせての新屋敷建設です。いわば最盛期の邸宅といえます。近藤勇の甥で隊士だった宮川信吉の書翰によれば、同年6月15日に入居しています。位置については、同書翰に「七条通り下ル」、幹部永倉新八の手記に「七条堀川下ル」とあり、当地付近に営まれたことは確実です。
が、厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明です。価値の低い記録による復元・叙述は、極力さけなければなりません。
同年12月の王政復古政変により、新選組はわずか半年で当屋敷を離れます。翌年1月の鳥羽伏見戦争の敗北ののちは、関東へ下り、解体の道を歩みます。当屋敷は維持されず早々に消失して、静かな農村に戻ったことでしょう。
が、明治になり、近くに七条停車場(現京都駅)が設置され、しばらくして地域一帯が京都市内に編入されます。当地付近は、地域史上はじめて京都屈指の「人の集まる場」となり、今に至ります。

歴史地理史学者 中村武生



| 石碑建立活動 | 10:48 AM | comments (x) | trackback (x) | お問合せ |
坂本龍馬 お龍「結婚式場」跡
坂本龍馬 お龍「結婚式場」跡

2009年9月6日 建碑

坂本龍馬 お龍「結婚式場」跡
此付近 青蓮院塔頭金蔵寺跡

京都市東山区三条通白川橋東入五軒町 東山ユースホステル前

 当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。
 元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。
 龍馬とお龍(鞆)の出会いや「内祝言」の具体については、1899年(明治32)ごろに聴きとられた、彼女の回想に詳しい。お龍(鞆)は1906年まで生きていました。
 一般には、慶応2年(1866)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは中岡慎太郎など)の媒酌で二人は夫婦の契りを結んだようにいわれます。が、この話は根拠が薄く、他の史料との検討からお龍(鞆)の話こそ信用すべきだと思われます。
 この地が選ばれたのは、お龍(鞆)の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であったためでしょう。その縁により金蔵寺住職智息院が仲人をつとめました。
 当時は池田屋事件(6月)や禁門の変(7月)のおきたあとで、京都は物情騒然でした。しばらくして龍馬は、薩摩島津家から望まれ、対立した長州毛利家との和解に奔走します。龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍(鞆)を寺田屋などに託します。二人はながく別居夫婦だったのです。
 当地を京都における龍馬とお龍(鞆)の重要史蹟として、ここに建碑します。

歴史地理研究者 中村武生




| 石碑建立活動::坂本龍馬 お龍「結婚式場」跡 | 09:31 PM | comments (x) | trackback (x) | お問合せ |
お龍 独身時代 寓居跡
お龍 独身時代 寓居跡

2009年3月29日 建碑

此付近 坂本龍馬妻 お龍 独身時代 寓居跡
此付近 京都府知事 中井弘 幕末期寓居跡

京都市中京区木屋町通六角下ル 都会館 「龍馬」前

 坂本龍馬の妻となるお龍(鞆)は、青蓮院宮に仕える医師楢崎将作・貞の長女でした。京都柳馬場三条下ル東側に住んでいましたが、文久2年(1862)6月20日、不幸がおきます。父の死去です。このため母・妹・弟をふくむ6人の遺族は困窮し、「京都の木屋町」もしくは「四条、うら通りの借家」に移住します。
 こののち一家は離散し、お龍(鞆)は単身七条新地の扇岩なる店に入ります。母と妹君江は、洛東大仏南門前(現東山区本瓦町付近)の河原屋五兵衛(五郎兵衛)隠居所の土佐亡命志士の居所に住み込みで働きました。その縁で龍馬とお龍(鞆)は出会うことになります。木屋町の住居は、その直前まで住んでいた地として無視できません。
 というのも、龍馬の書翰に記載されたお龍(鞆)の個性を知るエピソードに、妹光枝が悪い輩にだまされて大坂の遊郭に連れて行かれたが、彼女が単身乗り込み、ついに連れ戻すというものがあります。それが木屋町時代のことです。正確な位置は不明ですが、龍馬が「まことにおもしろき女」と愛したお龍(鞆)のゆかりの地として、ここ木屋町通に建碑するものです。
 なお龍馬やその終焉地の主人近江屋新助とも交流のあった、滋賀県知事や京都府知事を歴任する中井弘も、中井弘蔵や田中幸助と名乗った幕末当時、木屋町の近江屋喜一郎の2階に寄宿していました。あわせて顕彰します。

歴史地理研究者 中村 武生




| 石碑建立活動::お龍 独身時代 寓居跡 | 08:58 PM | comments (x) | trackback (x) | お問合せ |
楢崎家跡
楢崎邸

2008年10月5日 建碑

「この付近 坂本龍馬 妻お龍の実家 楢崎家跡」

京都市中京区柳馬場通三条下る槌屋町84‎ 「晃庵」前

 この付近、柳馬場三条下ルには、のち坂本龍馬の妻となるお龍(鞆)の実家がありました。
 お龍は、青蓮院宮に仕える内・外科医、楢崎将作の長女です。天保12年(1841)に富小路六角付近で誕生し、しばらくしてこの地に移り住んだと思われます。お龍の自宅が柳馬場三条下ルにあったことは、当時の医師名鑑といえる『洛医人名録』(文久元年〈1861〉刊行)や、姉乙女宛の龍馬の手紙(慶応2年〈1866〉12月4日付)に明記されており、確実です。
 お龍には、父母のほか、弟妹が4人もおりましたが、家事を任されることもなく、華道、香道、茶道などのおけいこごとに専念できたようです。父在世中は、いわば良家のお嬢さまとして、裕福に暮らしていたといえます。
 安政5年(1858)~6年の安政の大獄で、父将作の仕えた青蓮院宮尊融法親王(のちの中川宮朝彦親王)が厳しい処罰をうけます。残念ながら、将作がこの時期、どのような政治思想をもっていたかまったく明らかではありません。
 しかし大獄に連座した梅田雲浜や頼三樹三郎、池内大学などと親交をもっていたようですし、薩摩島津斉彬の命をうけて政治活動を行っていた西郷隆盛の定宿の鍵屋直助方は、このちかくの柳馬場錦小路上ルに位置しました。
 また梅田の弟子で、のち池田屋事件に連座する西川耕蔵(北村屋太助)の住宅も、至近の富小路三条西入ルにありました。楢崎家が彼らの交流の場になっていたとしたら、この地は幕末政治史の重要史蹟のひとつといえるでしょう。
 文久2年(1862)6月20日、父楢崎将作が亡くなると、お龍ら一家の生活は一変します。長弟太一郎はまだ幼少で、亡父に代わって家族をやしなうことができず、とうとう一家はばらばらになります。
 お龍とは別行動をとった母貞と末妹の君江は、洛東大仏方広寺南門前(現在の三十三間堂南大門)の河原屋五兵衛(もしくは五郎兵衛)の隠居所に居住する、土佐亡命志士の賄いのため、住み込みで働きます。ここに龍馬が住んでいたのです。これがお龍と出会うきっかけとなります。
 龍馬はさきに紹介した姉宛の手紙に、お龍に関するさまざまなエピソードを記し、「まことにおもしろき女」と紹介しています。
 龍馬が愛したお龍の人格の形成された場所、それは父の死まで一家団欒をすごした当柳馬場三条下ルの居所であったにちがいありません。
 以上の理由から、当地を幕末史、とりわけ坂本龍馬に関する重要史蹟として認め、石碑を建立するものです。

歴史地理研究者   中村武生



| 石碑建立活動::楢崎将作邸跡 | 03:30 PM | comments (x) | trackback (x) | お問合せ |
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