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「此付近 新選組最後の洛中屋敷跡」 建碑除幕式
除幕式日時:平成21年10月18日 15:00から
監修:中村 武生 先生
(NPO法人 京都歴史地理同考会 理事長、歴史地理史学者、京都女子大学など非常勤講師)
建碑場所:京都市下京区西洞院塩小路下ル南不動堂町802 ハトヤ瑞鳳閣

碑文
(表)此付近 新選組最後の洛中屋敷跡
(右)旧平安京左京八条二坊十五町
(左)旧山城国葛野郡不動堂村
(裏)二〇〇九年一〇月 ハトヤ瑞鳳閣建之

当地は古代の表記でいえば、平安京左京八条二坊十五町にあたります。
中世には八条院町とよばれ、鋳物生産が多数行われた、いわば工業地帯でした。
が、戦国時代には農村化し、江戸時代までに葛野郡不動堂村が成立しました。しかし豊臣期に構築された、京都全域を囲い込む惣構(城壁・環濠)「御土居堀」の郭内に位置していたため、「洛中」(都市)扱いを受けました。
幕末期、新選組がこの地域に屋敷を営みました。池田屋事件や禁門の変などでの活躍や、局長近藤勇の政治的力量が高く評価され、慶応3年(1867)6月、将軍徳川慶喜の直属の軍隊となりました。これにあわせての新屋敷建設です。いわば最盛期の邸宅といえます。近藤勇の甥で隊士だった宮川信吉の書翰によれば、同年6月15日に入居しています。位置については、同書翰に「七条通り下ル」、幹部永倉新八の手記に「七条堀川下ル」とあり、当地付近に営まれたことは確実です。
が、厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明です。価値の低い記録による復元・叙述は、極力さけなければなりません。
同年12月の王政復古政変により、新選組はわずか半年で当屋敷を離れます。翌年1月の鳥羽伏見戦争の敗北ののちは、関東へ下り、解体の道を歩みます。当屋敷は維持されず早々に消失して、静かな農村に戻ったことでしょう。
が、明治になり、近くに七条停車場(現京都駅)が設置され、しばらくして地域一帯が京都市内に編入されます。当地付近は、地域史上はじめて京都屈指の「人の集まる場」となり、今に至ります。

歴史地理史学者 中村武生


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坂本龍馬 お龍「結婚式場」跡
坂本龍馬 お龍「結婚式場」跡

2009年9月6日 建碑

坂本龍馬 お龍「結婚式場」跡
此付近 青蓮院塔頭金蔵寺跡

京都市東山区三条通白川橋東入五軒町 東山ユースホステル前

 当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。
 元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。
 龍馬とお龍(鞆)の出会いや「内祝言」の具体については、1899年(明治32)ごろに聴きとられた、彼女の回想に詳しい。お龍(鞆)は1906年まで生きていました。
 一般には、慶応2年(1866)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは中岡慎太郎など)の媒酌で二人は夫婦の契りを結んだようにいわれます。が、この話は根拠が薄く、他の史料との検討からお龍(鞆)の話こそ信用すべきだと思われます。
 この地が選ばれたのは、お龍(鞆)の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であったためでしょう。その縁により金蔵寺住職智息院が仲人をつとめました。
 当時は池田屋事件(6月)や禁門の変(7月)のおきたあとで、京都は物情騒然でした。しばらくして龍馬は、薩摩島津家から望まれ、対立した長州毛利家との和解に奔走します。龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍(鞆)を寺田屋などに託します。二人はながく別居夫婦だったのです。
 当地を京都における龍馬とお龍(鞆)の重要史蹟として、ここに建碑します。

歴史地理研究者 中村武生



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お龍 独身時代 寓居跡
お龍 独身時代 寓居跡

2009年3月29日 建碑

此付近 坂本龍馬妻 お龍 独身時代 寓居跡
此付近 京都府知事 中井弘 幕末期寓居跡

京都市中京区木屋町通六角下ル 都会館 「龍馬」前

 坂本龍馬の妻となるお龍(鞆)は、青蓮院宮に仕える医師楢崎将作・貞の長女でした。京都柳馬場三条下ル東側に住んでいましたが、文久2年(1862)6月20日、不幸がおきます。父の死去です。このため母・妹・弟をふくむ6人の遺族は困窮し、「京都の木屋町」もしくは「四条、うら通りの借家」に移住します。
 こののち一家は離散し、お龍(鞆)は単身七条新地の扇岩なる店に入ります。母と妹君江は、洛東大仏南門前(現東山区本瓦町付近)の河原屋五兵衛(五郎兵衛)隠居所の土佐亡命志士の居所に住み込みで働きました。その縁で龍馬とお龍(鞆)は出会うことになります。木屋町の住居は、その直前まで住んでいた地として無視できません。
 というのも、龍馬の書翰に記載されたお龍(鞆)の個性を知るエピソードに、妹光枝が悪い輩にだまされて大坂の遊郭に連れて行かれたが、彼女が単身乗り込み、ついに連れ戻すというものがあります。それが木屋町時代のことです。正確な位置は不明ですが、龍馬が「まことにおもしろき女」と愛したお龍(鞆)のゆかりの地として、ここ木屋町通に建碑するものです。
 なお龍馬やその終焉地の主人近江屋新助とも交流のあった、滋賀県知事や京都府知事を歴任する中井弘も、中井弘蔵や田中幸助と名乗った幕末当時、木屋町の近江屋喜一郎の2階に寄宿していました。あわせて顕彰します。

歴史地理研究者 中村 武生



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楢崎家跡
楢崎邸

2008年10月5日 建碑

「この付近 坂本龍馬 妻お龍の実家 楢崎家跡」

京都市中京区柳馬場通三条下る槌屋町84‎ 「晃庵」前

 この付近、柳馬場三条下ルには、のち坂本龍馬の妻となるお龍(鞆)の実家がありました。
 お龍は、青蓮院宮に仕える内・外科医、楢崎将作の長女です。天保12年(1841)に富小路六角付近で誕生し、しばらくしてこの地に移り住んだと思われます。お龍の自宅が柳馬場三条下ルにあったことは、当時の医師名鑑といえる『洛医人名録』(文久元年〈1861〉刊行)や、姉乙女宛の龍馬の手紙(慶応2年〈1866〉12月4日付)に明記されており、確実です。
 お龍には、父母のほか、弟妹が4人もおりましたが、家事を任されることもなく、華道、香道、茶道などのおけいこごとに専念できたようです。父在世中は、いわば良家のお嬢さまとして、裕福に暮らしていたといえます。
 安政5年(1858)~6年の安政の大獄で、父将作の仕えた青蓮院宮尊融法親王(のちの中川宮朝彦親王)が厳しい処罰をうけます。残念ながら、将作がこの時期、どのような政治思想をもっていたかまったく明らかではありません。
 しかし大獄に連座した梅田雲浜や頼三樹三郎、池内大学などと親交をもっていたようですし、薩摩島津斉彬の命をうけて政治活動を行っていた西郷隆盛の定宿の鍵屋直助方は、このちかくの柳馬場錦小路上ルに位置しました。
 また梅田の弟子で、のち池田屋事件に連座する西川耕蔵(北村屋太助)の住宅も、至近の富小路三条西入ルにありました。楢崎家が彼らの交流の場になっていたとしたら、この地は幕末政治史の重要史蹟のひとつといえるでしょう。
 文久2年(1862)6月20日、父楢崎将作が亡くなると、お龍ら一家の生活は一変します。長弟太一郎はまだ幼少で、亡父に代わって家族をやしなうことができず、とうとう一家はばらばらになります。
 お龍とは別行動をとった母貞と末妹の君江は、洛東大仏方広寺南門前(現在の三十三間堂南大門)の河原屋五兵衛(もしくは五郎兵衛)の隠居所に居住する、土佐亡命志士の賄いのため、住み込みで働きます。ここに龍馬が住んでいたのです。これがお龍と出会うきっかけとなります。
 龍馬はさきに紹介した姉宛の手紙に、お龍に関するさまざまなエピソードを記し、「まことにおもしろき女」と紹介しています。
 龍馬が愛したお龍の人格の形成された場所、それは父の死まで一家団欒をすごした当柳馬場三条下ルの居所であったにちがいありません。
 以上の理由から、当地を幕末史、とりわけ坂本龍馬に関する重要史蹟として認め、石碑を建立するものです。

歴史地理研究者   中村武生


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